みなさん、こんにちは。
今回は政治哲学を取り上げたいと思います。
今回は、カール・シュミットの『政治的なものの概念』を取り扱います。
私が読んだのは、未来社から出版されている田中浩・原田武雄訳版です。
カール・シュミットを日本語訳で読む際に困るのは訳書の種類が乏しいことです。
ほぼ未来社からしか訳書が出ていません(一部の訳書は岩波文庫、もしくは、後で紹介する中公文庫からも出ています)。
さらに、訳書が文庫化されていないので割と値が張るのは特に悩みどころです。
最近、ジョン・ロールズの『政治的リベラリズム』の増補版が出ていましたが、7000円近い値段でした。同著者の『正義論』なんて8000円超です。
そこまでいかなくても、大体の単行本の訳書は3000円〜4000円程度が相場なイメージはあります。
購入して勉強したいという学生にとっては負担が大きいです…。
そんなお高めの訳書の中でも『政治的なものの概念』は入手しやすい方です。
中公文庫からは『政治の本質』という本にヴェーバーと共に収録されています。
もっとも、訳者解説にもあるように、シュミットの部分は清水幾太郎が訳しているわけではありません。
その上、一部で訳が適当でない部分もあるとのことです。
「厳密な正確さは問わないが、とりあえずシュミットを読んでみたい!」という方におすすめです。
なお最近、岩波文庫から権左武志さんの訳が出たようです。
さて、カール・シュミットとは20世紀に活躍した公法学者です。
政治学と法学について様々な著作を発表しています。
シュミットはナチス・ドイツに協力していたことも知られています。
概略
『政治的なものの概念』の主張は概ね次の文章に要約されます。
政治の本質は、友・敵の区分を持つことにある。
友・敵の区分がなくなれば、政治そのものも無くなってしまう。
気になる点
正直シュミットの理論の分析は、本ブログでは手に負えません。
具体的な内容の分析はすっ飛ばして、早速、疑問点について移りましょう。
私が疑問に思うのは、政治の本質は”本当に”友・敵の区分なのか?ということです。
シュミットは、政治の本質がなぜ友敵にあるのかをほぼ説明していません(なぜ、”ほぼ”かというと、単に私が見落としている可能性もあるからです…)。
私は政治の本質なるものを捉えた経験もありませんし、この先も政治の本質を掴むことはないと思います。
仮に公法学者に「政治の本質とは〇〇である」と言われれば、否定することはできないと思います。
なぜなら、私自身が、政治の本質について全く無知であるからです。
しかし、本質がなんであるかを検証するのは困難ではないのでしょうか。
百歩譲って、シュミット(お偉い先生)の主張が反証に耐えて、政治の本質が友・敵の区分にあったとしましょう。
私には政治には友・敵の区分が必要ない場面が見られたとしても、それは私が政治の本質を誤って認識していたわけです。
しかし、次に問題なのは、政治の本質がわかったとしても、それが何を意味するのか?ということです。
シュミットによれば、政治の本質的な概念は友・敵の区分を設け、その人格を賭けた対立・闘争にあるとされます。
このような本質論を、現実の政治の状況に適用していくことにはどのような意味があるのでしょうか。
政治の本質に関わらず、政治なるものは多くの国で成り立っています。
友敵のような分断がなくとも政治は成り立っています。
つまり、友敵抜きに成り立っている政治に対して、「政治の本質は友敵である」ということは、すれ違っているように思われます。
これは、言葉の用法の移り変わりに似た部分があると思います。
時代が進むとともに、言葉の用法や意味が変わってしまってることがあります。
「〇〇の正しい意味は〇〇です」とか「正しい用法は〇〇です」などの言説は巷に溢れかえっています(とは言っても、最近はそのブームも下火な気がします)。
今を生きる私たちにとって重要なのは、その言葉が今どのように用いられており、今、何を意味しているかです。
昔、何が正しいとされていたか、元はどういう意味だったか(本質論)という議論は有効ではありません。
もちろん、本質論を否定しているわけではありません。私が言いたいのは、当該本質論抜きでも成り立つ状況に、それでも本質論を持ち出すことに違和感を感じているこということです。
そういう意味ではこのブログはプラグマティズム的な立場に立っているかもしれません。
シュミットの主張についても同様です。政治の本質が何であるかは確かに重要かもしれません。
しかし、現在の政治が本質論とは無関係に成り立っているのであれば、今更、本質論を唱えることはすれ違っているようの思われます。
私たちにとっては、政治が”現在”どういう意味を持つのか、ということの方が重要です。
例えていうならば、分断をもたらすような「友敵理論」が政治の本質であると主張することは、号泣の意味とは「大声をあげて泣くこと」であると主張していくようなものです。
号泣が「ただ大泣きすること」を指している状況で、号泣の本来的な意味を主張していくことはズレている気がします。
というのが、私のシュミットの疑問であると同時に、私がシュミットの理解に躓いている点です。
シュミットの主張は断定が多く、根拠が合理的に述べられていないことも輪をかけて問題を難しくしています。
と、書いてみたのですが、シュミットの友敵理論の話というより、本質主義への懐疑になってしまった気もします。
そうするとローティの『偶然性・アイロニー・連帯』を取り上げた方が良かったかもしれません。
参考
参考までにシュミットの入門書を紹介しておきたいと思います。
中公新書の方は割と最近でたものです。コンパクトにシュミットの主張がまとまっています。
一方で、仲正昌樹の方は、講義を元にした入門書となっています。ただ、余談が多かったりするので、好みが分かれるかもしれません。
私自身は、中公新書の方を主に参考にしています。
シュミットの言葉を借りればコロナ禍は例外状態と称されるはずです。
最近のシュミットに関する本の出版の動きは、コロナ禍と例外状態を紐づける発想からきていることが伺われます。
もっとも、コロナ禍も終息してシュミットの言うところの例外状態は終焉を迎えています。
この動きとともにシュミットの意義は再び忘れさられてしまうのでしょうか…。
ではまた今度。